ロシアがウクライナ侵攻してもう9ヶ月になろうとしています。まだまだ終結が見えずに今日も戦火に怯えている人々がいると思うと、心が痛みます。
先日、英霊(※)の遺骨収集をライフワークにしているという方のお話を聞く機会がありました。ソロモン諸島のガダルカナル島や、パラオのペリリュー島(写真)にはまだたくさんの日本兵のご遺骨が置き去りにされているそうです。
この事実に、私は愕然としました。
「私たちは、この方々のお陰で生かされているのです」
とその方が話されて、全くその通りだと思いました。
特に興味深い話では、ペリリュー島では、子供に日本人の名前を付けている人が大多数いるということです。「イノウエ」「サトウ」など、日本では苗字なのですが、ペリリュー島では下の名前に付けられているそうです。
とても興味を覚え、ペリリュー島の歴史を調べてみました。
パラオは、ドイツに支配されていましたが、第1次世界大戦でドイツが負けたため、講和条約で日本がペリリュー島を獲得。1944年9月に米軍が攻めてきて、日本の兵士が約1万人戦死しました。しかし、1000名近くいた島民からは、死者や負傷者が一人も出なかったそうです。
日本の統治下で、ペリリュー島には学校が作られ、インフラが整備され、日本人とパラオ人は共に仲良く暮らしていました。
日本から軍隊がたくさん来た時、最初は島民も怯えていましたが、兵士たちが丁寧に話しかけて警戒心を解いていき、とても仲良くなりました。
そして、戦況が悪化し米軍が攻めてくるとなった時に、島民は「自分たちも一緒に戦う」と言って来たそうです。しかし隊長が「帝国軍人が、なんの訓練も受けていない貴様らと一緒に戦えるか!」と突き放したそうです。
島民はその時自分たちは下に見られていたと感じ、悔し涙を流したそうです。その後、島民たちは島を去ります。
実は隊長は、島民を安全な島に疎開せるためにあえて突き放したのです。おかげで島民は全員無事でした。
終戦後、1947年に島に戻った島民は、たくさんの日本兵の亡骸を見て涙したそうです。
島には戦死した1万人の日本兵を祀る「西太平洋戦没者の碑」がつくられました。
その後パラオは1994年10月に正式に独立しました。
パラオの国旗(写真参照)を見てください。日本の国旗によく似てますね。
歴史をよく知り、先人たちがやってきたことを後世に継承していく。
それが今の私たちができることだと思います。そのためにはもっとこのような真実を知るために勉強していきたいと思いました。
戦争を知らない私たちだからこそ!!